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{地域社会]おたく:人格=空間=都市


 土曜日にY君の家で見せて貰ったんですが・・・マジですか?


本展示では、おたくの個室、数十万人が集うコミックマーケット秋葉原の都市空間、さらにはネット空間などが、連続した箱庭として再現される。そこは情報化時代の建築空間としてしばしば思い描かれてきたような、無色透明な浮遊空間などではない。各々が物語のオーラをまとったアニメ絵の無数の聖像(イコン)が、内外の壁、床、そして画面を、汎神的に構成している。
近代様式の移植にともなって「いかもの」として抑圧され続けてきた偶像や聖像が、八百万の神々のように立ち現れ、流通し、コミックマーケット秋葉原が“聖地”として巡礼される。喪われて久しいとされる都市的な祝祭空間と壮大なポトラッチが、そこには脈々と生きている。

おたく趣味は漫画、アニメ、ゲームなど、メディア横断的な特徴を持っており、また日本の現代文化としては例外的に海外に越境し得ている。これはおたく趣味が、特有の自意識とセクシュアリティをベースにしていることと関係している。これまで、国家や民族、宗教やイデオロギーなどをベースにした文化圏は多々あったが、人格をベースにしたものはなかった。この、都市をも変える新たなる構造としての「人格」の浮上は、環境の情報化と密接に絡んでおり、資本とはまた違ったパターンで、容易に旧来の境界を越境し、場を形成する。

〈おたく〉を、商品や作品としてではなく、その人格を起点とした横断的概念として、展示を通して提示するものである。
おたく:人格=空間=都市--開催概要

 冷静に読んでみると、かなり深い問題提起なんじゃないのかって思う。
 秋葉原って言うまちの事を考えてみると、池袋や渋谷のような電鉄資本が大規模に投下されたショーケース的なまちではないし、かと言って大手町や丸の内のような巨大権力である所の国家が計画を立てて構成をしたまちでも無い。言うなれば、自然発生的に集まって形成されたと言うまちである。言うなれば、「まちのスタートライン」が今でもよく見える所なんじゃないのか?って個人的には思う。戦後の闇市から始まり、その中でも電気製品に特化された市場が人を集めた。その後、ペリフェリーにおける市場の成立に伴って主力構成商品が代わり、その結果としていわゆる白物家電からパソコンへ移った。そして、そのパソコンに群がる人があらたな「まち」の姿を形成していく。地域住民による「まちづくり」の姿でもないし、資本や権力が構成した「まち」でも無い。でも、個人的に考える「まち」の発展過程(人が集まる事によってその場の魅力を構成し、その新しく創出された魅力によって更にその場の魅力を構成する)のプロセスを辿っているって言うのは非常に不思議なワケで。まぁ、方向性としては壊れているかもしれないが・・・ってそれは俺が言えるものではないな。少なくとも自分自身もその秋葉原の魅力に惹かれている人間の一人なわけだし(じゃなかったら、わざわざ定期券を秋葉原経由にしねーよw)。
 この展示のコミッショナーである所の森川さんの考え方(ヲタはどっか捻くれた性癖を持っている*意訳)には賛同する部分もあるものの、「それだけで成立するのか?」って言う感じで個人的には疑問を呈したいワケで。確かに、「80年代のパソヲタ=二次元のおにゃのこに(´Д`;)ハァハァ」って言うのもあるんだが、この秋葉原の持つ方向性を創り出した地域的な要因は一体何か?って事を考えてみたい。
 個人的には「アングラな雰囲気」ってもんがあると思う。闇市で売られていた何がなんだか良く分からないもの、そして、普通の人では「一体どうやって使うの?」って言うような電子機器のパーツ類、この根底には現在の社会の中で隠蔽されている「見ちゃいけないもの」に惹かれる人間の本質があるのではないだろうか。そして、その「見ちゃいけないもの」に惹かれると言う人間の本質に惹かれるもの、これが基底に存在するのではないか、と考える。確かに、その隠蔽されたものに対して興味を持たない人は当然ながら居るだろうし、それはそれでthroughしても問題はないと考える。
 また、そこで商売を営む人もある種の「隠蔽されたもの」に惹かれた人ではないだろうか。すなわち、白物家電の先行きが不味くなった、と判断して「パソコン」と言うその当時においてはまだまだ「隠蔽されたもの」への転換を図る事によって、自分たちの商売を続けていこうとした部分である。実は、ここにイノベーションがあるんじゃないのか?って思う。すなわち、客層を見る事によって経営革新を果たそうとしたものではないだろうか。そして、そこにアニメーションと言う、これまた大人にとっては「隠蔽されたもの」が繋がって来た、そんな地図を描く事が出来るのではないかと個人的には思う。
 で、この流れの中でいわゆる「美少女ゲーム」と言うものの勃興についても説明できるんじゃないのか?って思うわけで。それこそ、パソコンと言うものがまだ隠蔽されたものであった時代から、色々と「美少女ゲーム」が存在していたと言う事実を考えたとき、やはり基本的にはその「隠蔽」と言うキーワードで説明が付くのではないかと思う。
 その中で、個人の空間は基本的に「隠蔽されたもの」であると考えたとき、この森川さんが言っている「人格が都市を形成する」って言うのと非常に強く繋がってくるのではないかと思う。そりゃ、俺の部屋には人様に見せられないものが結構転がっているワケなんだがw、そんな「人様に見せたくないもの」が公然と店頭に並べられて居るって言う事は、正直に言えば全世界的に見ても珍しいと思う。
 あと、個人的に気になるのは行政がどんな考え方でこの「秋葉原」と言うまちを見てきたのか?と言う部分である。確かに歳入って言う事で言えば「儲かれば税金がたくさん入ってくる」って言うのがあるので、わざと「見て見ぬふり」(そりゃ、都市基盤の形成って言う事では一定の役目を果たす事になるワケなんだが)して来たのが今の活況をもたらしたんじゃないのか?って思うわけで。この「秋葉原」と言う余りにも雑多で猥雑な都市を、今後どのように持っていくのか〜それも、現在の活況と両立させながら〜が個人的には関心が有るところである。
 正直に言えば、「秋葉原」は今の「猥雑な空気」をいつまでも保っていって欲しいと思うし、むしろ、その「猥雑な空気」を保つ事が都市の競争優位を保つ事になるのではないか。あれだけの商業的・文化的集積は一朝一夕に形成されるものではないし、人間の欲望を締め付けてしまう事によってまた別の問題が発生してくる事も考えられる。都心の中の解放区、とまでは言わないが、ガス抜き的な役目も果たしながら今後の都市形成を考える必要があると思う。
 
 え、俺はですって?
 やっぱ秋葉原・・・面白いし、好きですよ。アップルストア銀座にも行きますし、メッセサンオーも平気で行きますよ。

 *画像はイメージです。