静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

築別炭坑跡

 オフの行程全体に関しては色んなネタがあるので別途まとめサイトを作る事にしているが、この表のBlogでどうしても取り上げたい話として「築別炭坑」の事がある。
 子供の頃に見たテレビCM、確か公共広告機構だと思ったのだが「軍艦島」を題材にして「資源を大切にしよう」と言う内容のものがあった。壁に掛けられた時計は時を刻む事無く、誰も住まない団地は荒れ果てている、そのビジュアルは幼心に非常に印象深い、いや、もっと有り体に言えば「怖い」ものだった。その後、ネットをやりはじめるようになってから「軍艦島」に関するウェブサイトを見る事になったが、やはり「現物」を見ていない以上何とも言えないやりきれない気分、そう言うようなものを感じていた。
 今回のOff会の行程の中で「築別炭坑」や「羽幌炭坑」と言う言葉が出てきたとき、ググって色々なホームページを見てみたのだが、今ひとつ実感がわかない。自分自身も地理不案内な部分もあるし、それ以上に自分の身の回りにそのような場所が無い、それが「実感がわかない」原因だったのかと思う。それでも、一応はどんな所なのかを頭の中にたたき込んだ上で現地に向かう事にした。
 国道を曲がり、県道に入る。担当者曰く「恐らく大型バスで入るのは初めてです」との事。だが、道は予想以上に整備されている。民家も途切れた頃にこんな鉄橋が姿を見せる。

 かつてここに走っていた羽幌炭鉱鉄道の鉄橋跡である。その役目を終えた日からそのまま手が咥えられることもなく、ただ時間の過ぎゆくままにその場所に姿を留めている。そして、車が1台として通らない道を更に奥に進み、交差点に突き当たる。その交差点を右折して橋を渡ると、そこにはこんな風景が待ちかまえていた。

 マチを護りし消防署の跡。だが、言われなければ誰も「消防署」とは気づかない。

 炭鉱住宅の跡。確かにその役目は終わっているものの、決して古い建物ではない。少なくともまだ同年代の建物を他の場所でも見る事が出来る。

 羽幌炭鉱鉄道の駅舎跡から見た病院、そして炭鉱住宅跡の眺め。
 そこにあったのは「確かにそこに人が住み、生活があった」と言う物言わぬ証拠たちであった。閉山されてから30年、ただそこの場所に存在し、幾つもの風雪と共に過ごしてきた跡がそこにあった。その昔、そこには5万人もの人が住み、それぞれの想いを抱いて生活をしていた。それを思うと、何とも言えない感情が心の中にこみ上げて来る。エネルギー政策の転換と言う誰にも止められない大きな流れ、ここに生まれ育った人の想い。確かに政策の転換や、経済効率性の追求は必要だったと思う。だが、その流れの中で様々な人の様々な想いが存在すると言う事は忘れてはならないのではないだろうか。
 翻って中山間地の抱える問題を見てみると、確かに廃村になった場所が存在していたりとか、捨てられた民家とかのように表層だけは同じようなものを見る事ができるのかもしれない。そして、そこには経済的な問題や文化的な問題も同時に存在する。実際、ぱっと見ると「廃鉱になったが故の廃墟と、先細りになって行ったが故の廃墟」と言うような違いが存在するのかもしれない。だが、問題は同根ではないのだろうか。政策が地域に何をもたらしたのか、そして、どのように変わる事を求めていったのか、そこではないかと思う。
 政策の流れを確かに止める事は出来ない。だが、その視点が常に「中央の視点」だけで進めていいのだろうか。だが、だからと言って地方の言う事が全て正しいのだろうか。正直分からない。ベストミックスとは何なのだろうか・・・。これは考えてみないと分からない。
 炭鉱跡で見た風景がこの国全てに広がってしまう前に、熱い想いを持った人をどうやって増やすのか。それが最大の問題であるのかもしれない。