静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

普通の女の子,と言う事.

十兵衛ちゃんも見てるわ,プリキュアも見てるわ,と言う事で「これじゃぁ,結婚相手見つからないよ」と後ろ指を指されそうな三番蔵ではあるんですがw.そうのべつ間もなく見ているって言うわけではないので勘違いしないように<関係者.だって,この日記自体「アレゲな話題から真面目な話題まで」って言うスタンスでやっている訳なんですから.
とまぁ,枕言葉はさておき,この2本の作品を見る中で気になったのが「普通の女の子」って言う概念.いや,おいらは生物学的に言えば純粋な雄なので分からない部分も結構有るわけなんですが,一体「普通」って言う事へのこだわりって一体何なんだろう?って思うわけなんです.十兵衛ちゃん2のヒロインである二代目柳生十兵衛こと菜ノ花自由は自らフリーシャの剣に「斬られる」事によって「普通の女の子」に戻ると言う選択をした訳だし(いや,まだ話が途中なので何とも言えない訳なんですが<課長さん,どうなるの?),プリキュアの二人はわけわかんねー間に空から振ってきた珍妙な生物によって変身させられて戦うって言う運命を(恐らく期間限定ではあるものの)辿らなくてはならなくなった訳で.「そりゃあんた,設定上の話だろ.後者の方は売らんかなの番組なんだから」って言われれば身も蓋も無いし,まぁ,こーゆー変身ものの場合のお約束ではある訳なんだが.
やっぱり「変身願望」,まぁ,リアルワールドの世界で言えば「上昇志向」が存在しているのがある訳なんだが,どうもこの2つの番組を見ているとそれだけで解釈してしまっていいのだろうか?と言う部分で疑問は残る訳で.変身したら変身したで別にいいじゃん,って言う事になるんだろうけど,そこで何で「普通の」って言うのが強調されるのであろうか.
多分,「上昇」の持つ裏が見えてしまっているって言う社会の空気ってもんがそこには存在するんじゃないのかって思うわけで.話は激しく飛ぶが,それこそ成功者と非成功者の光と陰,上昇する事が必ずしも「幸せ」とは言えない,上昇する事と平凡な幸せを天秤にかけたとき「平凡な幸せ」をチョイスする事が許されるような世の中になったって言う所があるんじゃなかろうか.その空気を反映しているのがこの2つの作品にあるような気がしないでもない.
確かに,十兵衛ちゃん2の監督であるところの大地丙太郎氏の初監督作品である「ナースエンジェルりりかSOS」(いや,こいつはマジで良い作品.手元にあるLDをデジタルアーカイブ化したいと思う今日この頃)では,主人公であるりりかは確かに「普通の女の子に戻りたい」と思いながらも,自ら過酷な戦いに身を投じる訳で.確かに「待ってるだけじゃ何も解決しないもの,何かしなくちゃ!」と言う非常にpositiveな考え方も持っているが,その基底に流れているのは「好きな人と一緒に居たい」って言う部分だったような気がする.
変身願望や上昇志向を持つことは決して否定しないし,その願望や指向があったからこそリアルな世界が発展したって言うのはある.けど,その発展はやはり「人」が根本にあるべきではないのだろうか.誰かの幸せのために何かを選ぶこと,自分があって,初めて他の事に目を向けることができるんじゃないのか,そんな事を示唆するような傾向なんじゃないのだろうかなぁ.