静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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変わっていく事と変わらないこと



いや、俺がやってる仕事もどっかで社会を変えていってるんだけど、それはいい方向へなのか?それとも?どっちかって言うとなあ・・・

 いつも読ませて頂いている都営三田線的同志の方の一言なんだが、正直おいらも「う〜ん」と唸ってしまった。変わる事が正しいんだか、それとも変わらないことを守るのが正しいんだか。
 おいら的には両方とも正しいと思う。変わる事も正しいし、変わらないことも正しい。時代の流れって言うものは、少なくともおいらが子供の頃には想像だにしなかった「インターネット」って言う余りに便利なものを生み出したし、その流れが今度はどっちの方へ向かうのか、って事はぶっちゃけ分からない。確かに様々な問題を生み出しながらも、おいら自身はあの頃(って言ってもたかだか10年前の話なんだよね)に帰れって言われてもそりゃ無理だ。ネットを通して知り合った人もいるし、ネットで変わった生活もある。そんな様々なものを捨てろって言うのはまず無理な話だ。リアルが現実に変わっているのを見てしまっているワケだからな。
 けど、社会がそんな風に変わる一方で変わらない社会っていうのもまた存在するのは確かな話だと思う。人間が生きてきたリアルな「まち」なんかは、確かに中心市街地が寂れてきているって言っても、やっぱりTown Prideってもんが存在するわけだし、その誇りを守ろうとして苦心惨憺している人もいる。産業だってそうだ。静岡で盛んなプラモデル業界だって、元々は雛人形の製造から始まったわけだし、その分派として(木工方面だけどな)家具製造って言うのもある。そーゆー存在は否定しちゃならないし、そんな先人の想いの上に今の俺らが居るって言う事を考えれば、やっぱり・・・守らなくっちゃならないものだと思う。いや、具体的な商品とか産業とかって言うもんじゃなくって、その背景にある「心意気」とか「想い」とかって言う数値化できないものなんだけどな。
 そういえば、明治の初めっころに「和魂洋才」って言う言葉があったような気がする、んじゃなくって確かにあった。海外から進歩的な技術は取り入れるけど、日本人の心を忘れちゃならねぇ、って言う考えだったと思う。実はこの明治時代の人の考え方ってすげー進歩的なんだけど、実は付和雷同って言う感じじゃなくって、一本筋の通った心意気なんじゃないのか?って思う。合理的なものは取り入れ、守るべきものは守る、そーゆー考え方って言うのが案外「大事なんじゃないの?」って思われ始めているんじゃないのか?っておいら的には考えているんだが。それがゆえに「ラスト・サムライ」がここまで流行り、同時にその愛の形として「世界の真ん中で愛を叫ぶ」って言うのが流行っているんじゃないのか?って邪推してみるわけなんだが。
 う〜ん、何か最後は流行批評みたいになっちゃったけど、「形は変わったとしても、想いを繋ぐって言う行為の意味は変わらない」ってのが実際のところかもしれないなぁ。