静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

id:thomas_oldmanさんへ

 昨日の日記に貰ったコメントに対するレスポンス。長くなってしまうが本文でお返事を。


はじめまして。いろいろ巡っていてたどり着き、気になったので書かせてください。
「自分の身近な人を大事に思うこと、その大事な人が居る場所ってもんを愛おしく思うことから始まるんじゃないのだろうか。」
と、いう文章ですが、私が書いた日記と丁度逆(?)っぽかったので、少し興味を持ちました。大事な人が居る場所。凄くわかります。もし何者かが俺の家や、昔から馴染んできた、過ごしてきた町、大切な友人、恋人、家族等をめちゃくちゃにしてきたら・・・って思うと、とても嫌になります。それは逆に、それらを愛しているからそう思うんでしょう。けど、どうもそれが国家と結びつく理由が私にはわかりません。必ずしも国家=それらではないのではないでしょうか。まあ、それは人それぞれ捉え方あると思いますがどうもそうなるといざという時に国家に利用されてもおかしくないように思えます。国家は国民を利用する場面が多々ありますからね、いい方向でも悪い方向でも。なぜ、aisyuno_3rdclaさんは日本国が好きなのですか?もしよろしければ理由を教えていただけませんでしょうか。理由を教えていただけるなら、とても興味深い話だと思います。いきなり、乗り込んできてこんな不躾な質問をしてご気分を害されましたら本当に申し訳ありません。もしよかったら、私のブログにもお越しください。未熟な文を乗っけております。それでは、またお会いしましょう。
 日記の方拝見させて頂きました。
 指導教官に良く言われているんですが、「言葉の定義をしっかりとしようね」って言う部分ですわ。で、取りあえず「国家」と言うものの定義をざっっくりとしてみると、2つの意味があるんじゃないのかな?って思います。
 まず一つ目は「統治機構としての国家」です。国会があってお役所があって・・・って言う、まぁ、「法人」としての部分ですね。で、もう一つは「地理的条件及び文化的な集合体としての国家」です。それこそ日本列島があって、その中に色んな人が住んでいる、って言う意味ですわ。強いて言えば「人の集合体」として考えた、って言う事が出来るのでしょうか。
 先日の日記では後者の「地域文化の集合体としての国家」って考えて貰えれば話が分かりやすくなるのではないかと思います。正直に言えば、おいら自身「統治機構の一番下っ端だけどそれでも一応中の人」な訳なんですが、仕事を進める上で「地域の持っているニーズと、行政機関の提供するソリューションがいい感じに一致しないんじゃないのか?」って言う事を常々考えています。まぁ、それが故に「地域」って言う発想から「何かいい方法はないのか?」って事で大学院に行くというアレゲな選択をしてしまった訳なんですけどねw。実際においらのような下っ端の下請をやっているような人間じゃない霞ヶ関の中の人の皆さんはすげー必死にやっているとは思います。ですが、その方向性を決める国会の中の人が余りにアレゲな事ばっかりやっているもんで、正直言って「このままじゃ、自分が好きな地域やおかしくなってしまうYO!」って言うように思っているんですわ。まぁ、何か話が激しく脱線してしまいましたけどね(苦笑)。まぁ、一言で言えば「統治機構としての国家」が今のままの方向性(高度経済成長期の成功体験、理解して頂ければ幸い)で突っ走って行くのであれば・・・明日は無いのかな?なんて思っております。
 ですが、ここで「文化の集合体としての国家」って言うのに目を向けてみると、こいつには結構可能性があるんじゃないのかな?って思うんですわ。
 確かに色々と日本人が過去から引きずっているものもあるとは思うのですが、あの2ちゃんねらーが「少しでも苦しんでいる人の役に立ちたい」って言う想いを多くの人が持っていて、その想いを「カイロを被災地に送ろう」って言う行動に移した理由は一体何なのでしょうか?他にも色んな例があると思います。あんまりいい評判は聞かないのですが、NHKで「ご近所の底力」って言う番組をやってますよね。やっている行動は別にしても何故、そこまで「何とかしたい」って言う想いを抱くのでしょうか。そして、その取り組みを何故あのような番組として紹介しているのでしょうか?
 恐らく、前者について言えば「祭り」って言う側面も否定できなくはないのですが、誰もが「困っている人を助けたい」と言う想いを持っていると言う部分、そして、後者について言えば「自分らの事は自分らで何とかしたい」って言う部分なんですよね。恐らく、その両方の根底には「行政なんか信頼できるか」って言う所があるんじゃないのかな?って思います。正直、行政は図体が大きいですのでそう簡単に動くことが出来ないですし、何と言っても「公平公正」をその旨としている訳ですから、特定の問題に関して深入りする事は出来ないのではないかと思っております。結局「自分達のことは行政に任せるんじゃなくて、自分達で解決するしかないんだ」って言う一定のコンセンサスが広く形成されてきているんじゃないのかと思うわけです。まぁ、政府も三位一体の改革で「自分らの事は自分らでせーよ」って言う方向に移ってきていますし、市民の中に形成されつつあるコンセンサスが公的に認められる方向を向いているのではないかと思います。
 おいらは、その「市民の【自分達の事を自分達で何とかしたい】と言う想い」がこれからの「統治機構としての国家」へ影響を及ぼすのではないかと思っています。例えば市民参画とか協働、確かに見方によっては「んなの行政が市民をいいように使っているだけだろ」って言う考え方も出来ないワケではないんですが、そう思ったら正直「それは違うんじゃないの?」って言いたくなるんですわ。今まで行政がやってきた事、すなわち住民が「税金を払っているから」って言って逃げてきた事をもう一度、市民の手によってその地域に特化されたものへとブラッシュアップする事が始まったのではないかと思うわけです。まぁ、その社会的なきっかけが団塊の世代のリタイアが増えつつある状況や昨今の経済情勢の厳しさであるって言うのは何か哀しい部分もあるんですが。
 今までの「お上に頼りっぱなし」と言う状況から変わりつつある社会への移行、それが盛り上がってまいりました!って言う状況が個人的には大好きな訳で、中越地震が起こっても(´ι _`  ) あっそで済ますような状況ではない所に、この国がまだ可能性を持っていると思うわけです。
 最後に党派的な事を少し言ってしまうかもしれませんが、個人的に陛下の発言に対してはGJだと思います。それは、「一方に偏って考える事の危険性」を見事に示唆しているものだと思うわけで。それはこの日本って言う国が法治主義である以上「日の丸」「君が代」には敬意を払う(個人的には、何でこれを「国歌」や「国旗」であると法制化しなくてはならないのか?と言う部分もありますが)事を求められている訳ですし(でも、何故これを法制化して定めないとならないのか?って言う疑問はありますけどね)。ですが、それを陛下のお墨付きを貰って強制させようとする手口が嫌いです。
 自分達の地域やそこに存在する「文化」や「歴史」に親しみを持ち、それらに敬意を払う事は必要だと思います。そして、それらの「文化」や「歴史」、そして、自分の好きな人、それらの統合の象徴としての「日本」と言う国や、「日の丸」「君が代」へ敬意を払う事、それはこの日本と言う国に生きる以上忘れてはならないのではないかと思っております。
 長くなってゴメンナサイ。自分も何か考えを多少はまとめる事ができたような気がしますです・・・。