静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

005 常識・普通

 普遍的な「常識」や「普通」と言うのは存在しないと考える。「汝、姦淫するなかれ」と言うモーゼの十戒の一つを例にとって考えてみたい。
 姦淫という行為がどのような行為であるかは論を待たない所ではあると思うが、仮に「婚外の者との行為」って言うように定義をした場合、果たしてこのような考え方が遍く全世界へ普及しているのかと言えば、過去から現在に於いて見た場合。全くそのような事はない。例えば第二次大戦以前の明治・大正期の農村部で存在したと言える「夜這い」、これは明らかに「婚外の者との行為」であり、キリスト教文化圏の人間から見た場合には「野蛮」と言う行為以外の何物でも無い。しかしながら、集落におけ風習として捉えた場合、「夜這いをしない/されない」存在は一人前の大人として認められないと言う事がある。すなわち、日本のある地域に於いては「夜這い」は当たり前の風習であり、キリスト教文化圏において「夜這い」は野蛮な行為である。
 いきなり「姦淫」かよ!って突っ込まれる方も多いとは思うが、この「姦淫」と言う行為一つを取ってみてもそこには「普遍的」な「常識」「普通」と言うものは存在しない。すなわち、その地域における歴史や文化によって「常識」「普通」は定義されるものであり、常に「常識や普通は星の数ほどある」と言う事を念頭に置かなくてはならないであろう。
 しかし、何故「常識」や「普通」が重要であると認識されるのであろうか。
 それは、生活の中におけるコードであり、そのコードを順守する事によって自己と他者との関係を円滑(とまでは行かなくても、少なくとも波風が立たない状況)に維持し、自らの存在を維持する事が可能になると言う一点のみである。本当はあんまり「常識」や「普通」と言ったものに左右される必要はないと思うが、人間が他者との関係上において初めて存在が可能であるが故に「常識」、そして「普通」が求められるのではないだろうか。