静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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043 奇跡

「奇跡は起きないから奇跡っていうんですよ」*1って言う言葉があるが、正直その通りだと思う。仮に、「奇跡」と思えるような事象が起こったとしても、その事象には何らかの因果関係がある、自分はそう思っている。
 例えば、自分自身が受けたある試験の事を例にしてみたい。まぁ、今の会社の入社試験なんですけどね(w。
 聞いた話では約150人が採用に応募したと言うらしい。そんな試験を受けて、採用をされたワケなんだが、同期は自分とあともう一人の都合二人だけ。で、おまけに後輩の職員はなかなか入ってこないので30過ぎのルーキーなんですがorz。
 まぁ、余計な話はやめておく事にして、正直、自分でも「良くもまぁ採用されたもんだなぁ」って今でも思っている。確かに奇跡的な事かもしれない。しかしながら、その決定プロセスは厳然とそこに存在する。一応は書類選考で筆記試験を受け、その上で面接試験を受け、結果として採用になるワケで。当然ではあるが人がそこに介在するが故に「主観」は介在するものの、「主観」と言ってもそれは「決定権者の考えによってある結果を導き出す」と言う行為であり、決して気まぐれとかそんなものではない。それらのプロセスの上に導き出された結論であり、その理由を説明しようと思えば説明は可能である。とまぁ、一般的にはこんな所である。
 しかしながら、いわゆる宗教における「奇跡」をどのように考えればいいのであろうか。
 聖書の中に出てくる様々な「奇跡」。確かに「奇跡」としか言いようが無い。しかしながら、その「奇跡」を生み出すものは一体何なのだろうか?そこを考えていくと「信仰」と言う主観プロセスが存在する。つまり「神様が居ると認識し、その神様への祈りと言う行為の結果としての奇跡」と考える事は出来ないだろうか。それが故に信仰を持たない者が奇跡を見る事はない・・・いや、確か異教徒がキリストが見せた奇跡をリアルで見て改宗したって言う話もあったワケで、ここをどう考えるのかが結構難しい所になるのかな?って思う。自分としては、改宗した人は心底からの異教徒ではなく、どこかで何かを渇望していた存在もしくは懐疑的なものをどこかに持っていたのではないだろうかと思う。その中で、「奇跡」と称される行為が行われたのを眼前にし、その答えが見えた、そう思う所である。
 奇跡は存在しない。だが、その「何かをしたい」「何かを叶えたい」と言う強い願いとその具体的な行動によって導かれる帰結であると考える。

*1:美坂 栞@kanon