静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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037 守るもの

 大きな存在ではなく、常に自分の身の回りにあるもの、居る人、それが「守りたいもの」ではないだろうか。
 第二次大戦中の特攻隊の遺書を拝読させて頂くと「自分の子供の未来を守るために、出撃します」と言ったものがある。確かに「未来」と言う存在は現在の自分とは関係ないものであるかもしれないが、「自分の身の回りに存在するもの」の背景として考えた場合には、確かに「守るもの」となり得るのではないだろうか。確かに軍隊に於いては「周囲と違った行動を取る」のは非常に勇気の要る事であるかもしれないが(実際、命令系統があってこそ「軍隊」は存在し得る機関であると思う。これは会社や学校と言う装置に於いても同様であると言える)、その背景には「守るもの」があってこそではないだろうか。
 翻って自分の事を考えてみたい。
 自分は30過ぎの毒男('A`)である。しかし、守りたいものは色々とある。自分にとって大事な家族を守りたいと思うし、将来自分が生きるこの地域社会を守りたい(外的な存在から、と言うのではなく、この活力や賑わいってものと考えて頂きたい)と言うのもあるし、自分の将来やりたい事を守りたい。そして、何よりも「自由な考えを述べる自由」を守りたいと思う。確かに「お前のような30過ぎの毒男('A`)に何が出来ると言うのだ?」って言うツッコミがあるのはもとより承知の上である。しかしながら、一目見ただけでは「余りに大きなもの」であるかもしれないが、いずれのものも自分の身の回りに関連するものであり、基本はエゴイズムにあると言っても過言ではないだろうか。エゴイズムがあってこそ初めて「守りたい」と思う気持ちが出てくる、そう思う。だから、決して他人のエゴイズムは否定したくはないし、それと同じくらい自分のエゴイズムは否定されたくない。
 問題は、そのエゴイズムにどのようなプライオリティを付与するのか、そこではないだろうか。