静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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産業集積を鹿児島で考えてみたお。

 まぁ、鹿児島行っておりました。

 で、現地在住(って言っても東京から転勤で行ったんですが)の大学院の同級生(って言ってもおいらより年齢は上なんですが)に鹿児島市内を色々と案内して貰ったんですわ。そこで、仙巌園って言う所に行ったんですが、ここには「集成館」って言う、幕末に薩摩の殿様が作った一大技術スペクタクル・・・じゃねぇや、工場群の跡があるんです。いや、工場群って言うよりコンビナートって言った方がイメージが捉えやすいと思うんですわ。それこそ、鉄もここで作ったりとか大砲を作ったりとか。
 で、ロケーション的に言えば鹿児島の市街地からは山を挟んだ所にあるわけで。目の前が桜島と言う絶好のロケーションなんですよね。まぁ、工業とは何も関係ないんですがw。で、曰く、「今の技術でも作れないものがある」って言う事。


ちょwww、それ何てロストロギアwww


 ええ、何か今、思いっきりアレゲな単語を話したような気がしますが、それは気のせいです。
 海外から来た図書を日本語に翻訳し、独自の技術を生み出したんですよね。結果的には薩摩藩明治新政府の中で重要なポジションをしめる事によって、結果的にそこではぐくまれた技術が日本のその後の技術的な基盤を築いたって言う事は言うまでも無い訳で。その部分に関しては確かにすげーって思うんですが、正直に言えば「その後はどうよ?」って言う部分があるんですよね。その集成館が地域産業に対して果たした役割って言うのはどうなのかな、と。
 これは、恐らく地勢的な条件とか政治的な条件も色々と絡んでくるとは思うんですが、幕藩体制下にあっては「藩=国家」と言うような事も出来ると思います。こうなって来た場合、鹿児島と言う所のロケーションは沖縄や中国と言った日本とはまた違った文化を持つ地域との交流には最高の場所だったのではないかなと思います。そんな中で、鎖国中であっても幕府の目が届きにくいって言う地勢的条件を活かして様々な独自の文化が発展したのではないでしょうか*1。ですが、明治維新の段階で完全に中央集権体制になってしまったが故に、鹿児島が持っていた「国」的なものが失われてしまったが故に独自の技術も下火になってしまったのではないのかな?って思います。
 また、もう一つ考えられるのが「同じ地域内でも断絶されていた」って言う地域内の地勢的条件もあるのではないかな、と思うのです。それこそ、集成館が現在の鹿児島市街地に立地していたのならば一体どうなったのだろうか?って言う事も思わず考えてしまう訳で。恐らく、何らかの形で技術者のスピンアウトが発生し、創造的な文化が地域に根付く事になったのではないのかな?と思ったりします。
 まぁ、「歴史にif」と言うものはありませんので何とも言えないのですが、産業集積の発生条件の一つに「地域内の他のアクターとの交流」って言うものもあったのではないかなと思ったりしたんですわ。

とはいえ、島津興業がやっている「薩摩ルネッサンス」と言う運動は、地域活性化の方法としては一つの方向性を示すものではないのかな?と言う事で結構興味はあります。

*1:文化の中に技術と言う概念が包含されると考えてます