静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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そろそろ書いてみようか、0系の話(1)


今から10年弱ほど昔、東海道新幹線から0系が引退した。一番最後の列車は東京発16:31の「こだま473号」名古屋行。その車内で最後の記念に買い求めたクリアファイルである。
このクリアファイルを見ると色んな事を思い出す。社会人になって時々出張で使った0系、大学生の頃にやっていた車内販売のアルバイト、高校生や中学生の頃に東京に遊びに行くときに乗った0系、そして、幼かった頃に親に連れられて乗った0系。色んな場面でこの「0系新幹線」に当たり前のように乗って来た。恐らく、自分の中で一番多く乗った新幹線は他の何でもない、この0系新幹線だったのだな、と思うと本当に色んな感情がこみ上げてくる。
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どこからこの話を書こうかと思ったのだが、まずはこの東海道新幹線での0系最終列車の話を書いてみたい。
■きっかけ。
今でこそ別の会社で仕事をしているものの、その当時は静岡県内にあるとある旅行会社に勤務をしていた。当時からパソコン通信で鉄道好きな仲間と色々とやっていたのだが、ある時こんな話が出てきた。
「最後の0系新幹線、みんなで乗りたいなぁ」
正直、冗談みたいな話だと思った。その当時、いわゆる「オフ会」開催に当たっては「旅行業法への抵触懸念」と言うものが非常に煩く言われていて、仮に集まったとしても「切符の手配とかどうしよう」と言う話があった。そんな中で色々あって(と言うか、細かい所は話を忘れたのだが)自分の勤務先で一括手配、かつ、旅行業法絡みの問題をクリアするために「主催旅行」(言うなればつい最近あった日本旅行のさよなら0系ツアーのようなものと思って頂ければ幸い)として行う事になった。だが、オフ会、とは言えども旅行会社の中の人の立場から見れば「仕事」以外の何者でもない。
■企画と手配。-団体枠あったよ!
大体の企画案をまずは詰める。行程としては東京駅集合・名古屋駅解散と言う単純なもの。後はこれに食事と旅行傷害保険を付けて大体20%の利益率(今で言えば1ツアー当たりの利益)が出るように予算案をたたき出して上司の了承を得る。売上げ的にも問題無いし、参加者もめどが立っていると言う事で社内的に企画にGoサインが出る。
そしてJRとの交渉に入る。ここで非常に幸いだったのがJR東海の担当者が「非常に理解のある方」だった、と言う所であった。言うなれば「○○の(本名)さんは好き者だからなぁ」と言うような理解があったのかもしれない。実際、自分も「何でこんな無茶な依頼をしてくるんだ?」と思いながらも、何とか依頼のあった座席を売ったりとかと言う関係があったのかもしれない。そう言う中で「最終の0系だろ、大丈夫かな?」と思いながら相談の電話をしてみた。
「9月18日のこだま473号ですけど、○販の団体枠ってあります?」
「ええ、大丈夫ですよ。」
「じゃぁ40席(実際にはもっとあったのかもしれない)お願いできますか?」
「分かりました。団体名は・・・」
と言う業務的な話をしてから
「(本名)さんが何かやるんじゃないかと思っていましたよ」
「やっぱりそう思われてましたか(笑)。」
結局全部で4両しかないうちの車両の半分程度を団体で確保したのは私です。それも静岡の田舎にある旅行会社で。だけど、その当時は2008年に全ての0系が引退するなんて言うのは全く分からない話でしたし、山陽新幹線に行けば「ウエストひかり」がまだ現役で走っていた頃ですので、まだ0系そのものの大きなブームにはなってなかったと思うのです。まずは座席確保完了。
■企画と手配-何かネタ無いかな?
 今でこそ「乗車記念品」とか色々な手配をする事が可能になった訳なんですが、当時はそんなものまだ頭が回らなかった自分。それでも、何か記念になるものが無いかな?と考えていたのが実際の所。そこでティンと来たのがお弁当の積み込み。東京名古屋間だと静岡が丁度中間点。そうなってくると食事手配は東海軒さんか・・・と言う事になった。
 私が勤務していた会社には、良く東海軒さんの営業さんも来ていた。時々バカ話なんかもしており、顔なじみと言う状況。それだったら、と言う事で来社された際に相談をしてみた。
「いや、実は9/18の最後の0系こだまに乗るツアーがあるんですよ。でね・・・」
「分かりました、やってみましょう」
と言う事でその日は半ば無謀とも言える「お願い」をしてみた。そして、その数日後・・・

こんな掛け紙が出てきた。
「こんな感じになるんですが、どうでしょう?」
もう喜ばずには居られなかった。話をしてみた内容は「0系が最後の運行になる訳だし、それこそ開業記念の掛け紙の復刻なんかできませんか?」と言うものであった。お弁当そのものは幕の内弁当ではあったが、それでもツアーに参加された方の記念になれば、と言うものであった。これで行きましょうと言う事になって、ささやかではあるものの、想い出の品物になったのではないかと思う。ちなみに写真に残したのはその時貰った見本で、退職するときに記念に持って帰ってきた自分でも「楽しかった想い出」の一品である。
■募集
 この頃は今のようにインターネットが普及してなかった(会社にも普及してなかった)ので、さしあたっては自分のアドレスに参加希望の申し込みをして貰い、それに対して参加申込書とかを送付した上で振込をして貰う、と言うような形であった。当然昼間は本業の仕事をしている訳で、「主催旅行」と言えども基本的には自分で全部処理をしていたのが実際の所だった。それでも一応は「こんなツアー募集やってますので、問い合わせがあったら私の所まで連絡してね」と言うような形はしていた。各営業所にも参考用としてチラシ(当然wordで自分で作ったり)を送付し、数件は問い合わせがあったりとか、申し込みもあった。やっぱりそれだけ「思い入れのある人が居るんだな」と実感。
 結局ツアーは満席となり、無事に催行できる事になった。
■当日。
 JRの方に相談したところ「集合場所は日本橋口でして欲しい」と言う事になっていたので、静岡からは新幹線ではなく特急東海号で向かう。日本橋口でツアーの受付を一時間前から行い、チェックインと乗車票を配布し、流石に団体乗車券なので集まってホームに上がる。
・・・
 だけど、正直に言えば、この日は「乗った」って言う記憶が断片的にしかない。やはり「仕事」と言うのがあったのかもしれないのだろうか。静岡駅で弁当の積み込みをするときに会社の後輩が見送りに来てくれた事や、車内で色々と話をしていたこととか、そんな事くらいだったと思う。
 ようやく一段落ついた所で車内を回る。0系のYk8編成。何回か学生の頃のバイトで乗務した事あるなぁ・・・なんて言う事を思いだしていたし、当時一緒に乗務していた人に会って「当然何か買うんでしょ?」と言う事でクリアファイルを買った、と言う事くらいだろうか。だけど、今でも覚えているのは三河安城を発車してからの放送。今までの0系が歩んできた歴史、そしてこれからも0系の遺志を次いで新幹線は走っていく、と言う内容の放送。
 ここで、一つの歴史が終わったのだな、と思った。そして、自分の中で「0系」へのお別れはこれで終わった、そんな気がしたのである。
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 多分、その日以来0系を大阪や博多で見る事があっても「乗る」事は無かったと。
 やはり何にしても限られた時間の社会人。急ぎの時は300系に乗る事が多かったし、それ以前に大阪までは行ってもそこから先は・・・と言うのが実際の所だった。そして、あの日の「お別れ」が最後の「お別れ」になってしまった。
 それから9年、0系さよなら運転に乗りに行きたい、そう思ったものの結局は指定席が取れる事無く終わってしまった。今となっては「夏に乗りに行けば良かった」と後悔するところが大きいが、全てはもう後の祭りにしか過ぎない。だけど、0系が0系らしい16両と言う姿で東海道新幹線を走り去っていった最後の日に立ち会えた事、そして、9年前にツアーを企画して実施する事が出来たという事。自己満足の世界であるかもしれないけど、やっぱり「0系」と言う車両にただ乗るだけではなく、時には添乗員として、時には出張のサラリーマンとして、そして、昔は車内販売の乗務員として「色んな事」を経験させて貰った事は、やっぱり宝モノなのかもしれないな、と思う。
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明日は車内販売員として乗務していた頃の事を断片的に書きたいなぁ、なんて思っていたり。
ふわ〜っと読んで貰えれば幸いです。