静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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そろそろ書いてみようか、0系の話(2)

 始めっから「連載」の意気込みだった訳でw。え、需要なんかねーよ?
 いやいや、そんなの分かってますってwwww。だけど、どうしても書かずに居られない事って色々とある訳で。で、ましてや肝心の書くタイミングを見事に逃していたって言うのが実際の所だったんですよ?
 と言う訳で、今日は学部生の頃にやっていたアルバイトの時の話でも書いてみようかと。
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 1993(平成5)年6月9日のこだま403号。
 5号車のビュフェのカウンターの中から見る新幹線の車窓は雨で煙っていた。皇太子様のご成婚の儀の日と言う事もあり、臨時に休日になった日。いつもは忙しくワゴンを押しているのに、その日はお客さんも少なかった事を覚えている。社員さんと「暇やなぁ〜」「暇ですねぇ〜」なんて言う事を話していたと思うのだけど、どんな話をしていたのかは覚えてない。だけど、カウンターの中から見る車窓は雨に煙っていた。自分たち以外には誰も居ないビュフェ。その景色だけは今でもありありと思い出すことが出来る。
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 この年の春、先輩の薦めもあって新幹線の車内販売のアルバイトを始める事になった。所属はJダイナー東海大阪クルーセンター。今では無くなっている会社である。その当時、社員さんは「営業所」に所属し(一定数の営業所所属のアルバイトも居た)、アルバイトは「クルーセンター」と言われる部署に所属していた(尤も、その後の「のぞみ」増発に当たってパーサーも配属される事になった)。
 新大阪をベースにして東京までの東海道新幹線区間をメインにして、行路によっては広島や博多への山陽新幹線区間での車内販売業務を担当していた訳だが、このバイト先を選んだと言うのは、今となって思えば何だかんだ言って「新幹線が好き」だったからかもしれない、と思う。また、列車によっては東京駅での折り返しの間が三時間以上ある乗務行路もあり、東京へも比較的頻繁に行く事が出来ると言うものもあった。そう思えばあのアルバイトを選んだと言うのは必然の流れだったのかな、と思う。
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 その当時の東海道新幹線、と言えば100系X編成(2階建2両入り:JR東海)やV編成(2階建4両入り「グランドひかり」:JR西日本)が一番の花形であった頃である。しかし、入社当初の乗務行路表を見ると「V1099A」や「V2047A」と言った広島営業所担当の行路もあったものの、殆どが0系Y編成(こだま用:JR東海)、H編成(ひかり用:JR東海)、N編成(ひかり用:JR西日本)、その中に100系G編成(JR東海)が散見される程度であった。
 正社員ではないので、当然ながら乗務交番が組まれている訳ではない。自分の都合のいい曜日や時間帯を事前に申請し、その中から乗務行路を割り当てていくと言うシフト形式であった。自分の場合、昼間はやはり学校があったので、どちらかと言うより殆ど東京泊のコースに多く入っていた。そのため、乗る列車も自然と限定され、ひかり270号〜ひかり101号、こだま456号〜401号、こだま458号〜403号と言うこの3本の中のどれか(もしくは臨時列車)だった。
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 見習い乗務を終え、1本で乗る事になったのは0系のこだま号。何号に乗ったのかは忘れてしまったが、のっけから珈琲をこぼしてしまって始末書を書いたりとか、車掌さんの夏制服をかぎざきを作ってしまい、「お客さんじゃないから・・・報告書書いて置いて」と言うような事もあった。恥ずかしい話ではあるが。
 そんな中で良く覚えているのが「ひかり101号」(岡山行)であった。東京を6:28に出て新大阪には9:40に到着する列車であったが、入社当時から暫くの間は0系が入っていた。当然「ひかり」号であったので食堂車も連結されていると言うものであった。食堂車の厨房は数回しか入ったことが無かったが、それでもしっかりとした厨房設備があったので、この列車の賄いのバリエーションは他の列車に比較すれば相当大きかった事を思い出す。それこそ、本来は朝食用のサンドイッチ(当然商品とは違う)と牛乳程度だったのが、クルーによってはフレンチトーストに化けて出てきたりとか、何故か卵雑炊が出てきたりとか、と言う「食堂車」があったからこそと言う内容のものであった。
 しかし、当然ながらこの列車に限らず朝の「ひかり」は本当に忙しかった。とにかくコーヒーがよく売れて仕方なかった事を思い出す。少し進むとコーヒー、また進むとコーヒーと言う具合であって、9号車のビュッフェを出発したら3両程度進んでまたビュッフェにコーヒーの補充に戻り、またワゴンまで戻る、と言うそんな繰り返しだった。
 だが、0系の強い所は簡易な厨房であるとは言え、厨房があったと言う所である。コーヒーマシンだけでは足りないと見るや車内に設置してある電熱コンロでお湯を沸かしてコーヒーを入れるという事もしょっちゅうあったし、食堂車のコーヒーマシンもフル回転と言う状況であった。また、サンドイッチも積み込み分が売り切れそうになる、と言う状況になると車内で材料を切り始め、車内調製が出来たと言うものである。
 また、夏の暑い時期にも0系の強さは発揮された。冷房の効き具合が100系300系と比べて段違いに強いと言うのもあったが、車内にある飲料を冷やしておくクーラーボックス(水槽に水を張り、その中に飲料を入れて冷やす。その当時のワゴンにリネンがぶら下げてあったのはその水を拭うためのものである)の効きもまた最強だった。夏でも氷が張ってしまうと言う強力さは、同じクーラーボックスを11号車の車販準備室で使っていた100系とは段違いであり、0系に乗り慣れていた一部のメイツ(クルーセンター所属のアルバイトの社内での呼称)は「100系つかえねーw」とまで言う程であった。いや、自分もそうだったんですが(汗。
 そんなこんなで、バイトの仕事と言うのは0系を基準にして覚えていったと言う、東海道新幹線100系G編成ががしがし入っていた頃の人間としては「どっかずれてね?」と言う状況だったりする。G編成なんかの場合はグリーン車は専任のグリーン車担当が居たので、定期列車の場合にはその担当者(社員)が回っていたが、0系の場合にはアルバイトがワゴンを押して回っていた。別にサインは貰わなかったものの、当時始まったばかりのJリーグの選手とか有名人を見かける事も結構多かった事を覚えている。
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 その後は300系「のぞみ」にも乗務するようになり、博多行の「のぞみ27号」でサービスコーナーを担当してしまったりとか(本当は社員さんが担当する業務なのだが、諸事情あってメイツ、それも男性の自分に回ってきた)、博多〜東京間を風邪をひきながらワゴンを押したりとか言う事もやったのだが、やっぱり最後まで0系と300系をメインで乗務していたような気がする。他のメイツ諸氏が「0系面倒臭い」とか言う中で「0系が楽だよ」などと言うのはやっぱり「変」だったのかな?と思う。
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 ある日、こだま401号に乗務していた時の事。
 名古屋到着直前でビュフェのカウンターに入り「あ〜、名古屋やな〜」などと社員さんと話をしていた時に、どこかで見た事のあるような人が通り、お互いに「あっ!」と言った事があった。たまたま名古屋出張でその列車に乗っていた自分の親父w。親父は名古屋で降りるためにビュフェの中を通り抜け、自分はビュフェの中で仕事をしていると言う状況。お互いに「気を付けて」と言うような事しか言えなかった。
 その直後、社員さんから「誰なん?」と言われ「俺の親父ですわ。出張かなんかでしょうね」と返したら「これ持って行き」とビニール袋を渡された。中を見ると缶のウーロン茶だったりする、一応は売り物。折角の社員さんの心配りと言ったものだろうか。
「これ持って行って、いってらっしゃい」
「ありがとう。気を付けろよ」
そんな会話を出張のサラリーマンと車内販売員がしている様子、端から見たら一体どうなのかな?と思うのだが、そんな風景も0系の中であったなぁ、と今更ながら思い出す。その缶のウーロン茶、一体出所はどこなのかな?と思うのだが・・・社員さんが気を利かせてくれた訳だし、追求するのは野暮だと思う。
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 これまたある日、ひかり101号に乗務したときの話。
 何か大きなイベントががあったのだとは思うのだが・・・、とにかくお客さんも多く「今日は売りまくるでぇ」と言う事で、平日朝のワゴン(コーヒーとサンドイッチばっかり。ビールとかは本当に少ししかない)ではなく、休日仕様のビール多めでワゴンを作ったのはいいが・・・自由席の方へ向かったところ通路まで満席。どう考えてもワゴンが進める状況ではない。呼び止められるので販売はするものの、どうしようもなくなって一旦ビュフェまで戻って社員さんに報告。「じゃぁ、ワゴンは5号車のデッキに置いてそこで販売して」と言うようになった事もあった。
 尤も、大阪直前で「メイツ君、今日は【何があるか】をしっかり把握しておかないとだめでしょ!でも、いつものワゴンで行かなかったのはいい所だよ。」と怒られたのか褒められたのか良くわからない言葉を貰ったり。だけど、「何があるか」と言う事を把握して、その客層に合わせたワゴンを作る事〜今の自分で言えば「顧客層に合わせた商品展開」〜が大事だ、って言う事を身を以て体験したような気がする。
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 ある年のクリスマスイブ。
 親しくしていた人と「こういう日はW(大阪東京間2往復)行路に限るな」と言うバカな事を言い、泊まり行路がメインな自分が唯一1回だけ一日で大阪東京間を2往復した事があった。1往復目はG編成での往復、2往復目は0系での往復であった。この頃になるとJR西日本所属の0系「ひかり」編成の一部に座席交換車が登場しており、0系ではありながらも100系V編成とほぼ同等な椅子の車両があった。グリーン車なんかは完全に100系V編成と同じであり、「すげー」と思って見ていた事を思い出す。
「バイト君、メリークリスマス」
「お疲れ様です。メリークリスマス」
「ところでさ、西日本の0系で椅子交換車ってあったんだ。」
「何かそうみたいですねぇ。私も初めて乗務するもんで」
などと車掌さんとグリーン車のデッキで立ち話なんかした事もあった。
「バイト君、新幹線好き?」
「そうですねぇ、好きじゃなかったらこんなバイトやってないですよ。車掌さんはどうですか?」
「仕事だけど・・・やっぱり好きだなぁ。まぁ、お互い今日は頑張ろうや」
「はい!」
外に見える近江路には粉雪が舞っていた。まさにホワイト・クリスマス。特に何もなかったけど、あの時の車掌さん、今はどこで何をやってるのかなぁ・・・なんて思う。
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 正直、書いている間に色々と思い出す事が出てきて「懐かしいなぁ」と思う事も本当に多い。他にも100系300系の話もあるが、今回は0系での想い出を書き出してみた。乗務員として0系に関わったのは本当に短い間だった。だけど、今となってはどれもこれも本当に「懐かしい」想い出である。
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 明日は、それ以前の話を書いてみたく思います。
 あんまり期待しないで待っていて下さい・・・って需要ないだろ常考