静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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-仙台「絆」紀行(5)仙石線代行バス-


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※8月16日補足※
 写真の場所が違っていると言うご指摘を頂戴しました。ご指摘ありがとうございます。

その翌日の朝。実はどうするか決めていなかった。
そんなときに友人から入ったメッセージ。

「せっかく仙台に居るのだったら、被災地の様子を見てきてもいいのではないか、そして、その様子を伝えなくちゃならないのでは?」

その友人は、大学で建築史を教えている高校の頃の同級生。実際に震災後に現地を見てきたようであり、その言葉には説得力があった。もし、あの地震駿河湾で起こっていたら「今、ここに自分はいない」と言うのがわかっていた。

正直、少し悩んだ。だが、結局行くことにした。
どこを見に行こうか多少悩んだが、結局は石巻まで行くことにした。「野蒜のあたりが本当に酷かった・・・」と言う話もあった。確かに仙石線も松島海岸駅(松島町)から矢本駅(北松島市)まで代行バスの運行になっていることや、帰りは高速バスで仙台まで出る事ができると言うのも調べることができた、と言うのもある。


仙石線あおば通駅。月曜日の朝と言うこともあり、到着する電車からは静岡のそれと全く変わらない通勤客が降りてきて、それぞれの一日をはじめようとしている。そんな中、快速電車に乗り込んで松島海岸駅まで向かうことにする。行き先は高城町であるがなぜ?と言う部分もあるが。
念のため、改札を通る際、駅員さんにSuica石巻まで乗れるかどうか確認したが「乗換の松島海岸駅・矢本駅で自動改札機にタッチしなければ問題ない」と言うこと、そして、現行ダイヤの時刻表をもらった。

電車は東京の山手線で走っていた205系。電車に乗っている限りは「ここで大きな地震があった」と言うのは全くわからない。何事もなかったように「普段の生活」がそこにはあった。そして、松島海岸駅。


この松島海岸駅から矢本駅までは代行バスでの運行になる。駅前には駅員さんが多く出て、代行バスへの案内を行っている。さすがに今回は駅改札から遠い場所に座っていたので前の方はおろか、窓側にも座ることは出来なかった。だが、たまたま座った席の隣の人は途中の停留所で降りたので、結果的に窓側に座ることができた。
松島の街の中は、津波被害は全くなかった。確かテレビなどでも「松島が防波堤の役割を果たしたので、被害はなかった」と言うような報道をしていたが、本当にそのとおりであった。松島巡りの観光船も運航をすでに再開していたし、公園の前にあるおみやげ物屋さんも、普通通りに営業をしていた。ただ、観光旅館だけが復興作業を担っている方の宿泊施設となっているだけの状況だった。

その後、峠をひとつふたつ超えて、バスは陸前大塚駅にやってきた。

陸前大塚駅周辺 ※8/16修正

そこには電車は走っていなかった。いや、架線柱も傾き、架線や電線は一部が垂れ下がったままだった。

だが、本当に「変わり果てた姿」はその先だった。

■東名駅(の上の陸橋からの風景) ※8/16修正

4squareの東名駅のコメントを見ると「そのまま復旧できない区間である」旨が出ており、それほどまで被害が大きかったのか、と言うことを感じざるを得なかった。

■野蒜駅周辺

■野蒜矢本間

■矢本駅手前

この光景をこの目で見て、本当に言葉が出なかった。
ただ「絶句」するだけだった。


そして、しばらくしてから出てきた言葉は
「こんなの、絶対おかしいよ」
この言葉だけしか出てこなかった。

普段通りに走っている仙石線の電車と、未だ車庫へ帰ることのできない仙石線電車。
松島が守ってくれた松島海岸駅と、津波に壊されてしまった野蒜駅。
壊されてしまった野蒜のまちと、何事も無く普通の暮らしをしている南仙台のまち。

多くの人の命が津波に飲み込まれた東北の各地と、
地震が起こった近所ではなかっただけに助かった海岸沿いの街の焼津。

津波に飲み込まれた人の命と、今生きている自分の命。


語るべき言葉もないまま、矢本駅に到着。そして、予想外のキハ110系に乗って石巻に到着した。