静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

「意見」を言うことの重さ。

 色々と思う事はありながらも、書けない日々が続いています。
 話題になっている事はあるのですが、「果たしてそれを書いてしまっていいのか?」と思う事が非常に多いのです。

 日々の仕事の中で、色んな会社にお邪魔してお話を伺って、その内容を報告書に書くと言うことをやっています。「なんだ、それって話を聞いて、その内容をまとめればいい話だろ」とおもわれる方が居ると思うのですが・・・そんな単純な話ではありません。訪問する前には「お話をお伺いしたいこと」を決めなくてはならないのですが、その「お話をお伺いする」ためには幾つものステップがあります。
 事前に訪問の意思を伝えてアポイントを取るのですが、そのアポイントを取る前に「何のために訪問をするのか」と言う目的を明確にしないとなりませんし、その次のステップである「具体的にお話をお伺いする内容を検討する書類」も頂かなくてはなりません。当然ではありますが、事前にストーリーを作っておく必要があります。
 その上で訪問を了解頂き、書類を送ってもらってから内容の検討に入ります。
 お伺いしたいことを考えるためにはその会社の内容を理解しなくてはならないですし、その会社が置かれている業界動向などの周辺環境も調べなくてはなりません。単純に頂いた書類をまとめるだけではなく、統計をダウンロードしてきて分析を行ったりとか事前の準備も欠かすことはできません。その上で「この部分は直接話を聴かないと分からない」と言うものを抜き出してレジュメにまとめ、同行者と方向性の確認をした上で初めて会社に訪問することができます。
 そして、当日はお話をお伺いし(これもこれでいまだに慣れない所はあるのですが)、そのお話の内容から欠けているパズルピースを見つけ出して当てはめ、更にそこから「どのようにすればいいのか?」と言う提案を考えて報告書の作成までようやくたどり着けます。
 事務作業も当然ありますので、大体1社について着手から仕上がりまで最短で1ヶ月、ヘビーな案件ですと2ヶ月は軽くかかります。そうやって「報告書」を作り上げるというプロセスを進めています。時期によっては複数の案件を同時並行しないとならないケースもあり「あれ、これってどっちだっけ?」と言う笑えない事態も時々発生してしまいますが(情けない。

 その根底に存在するのは「その意見には根拠があるのか?」と言うこと、そして、「その意見には目的があるのか?」という考えです。そこを無視して(無視しないでも)報告書を作成すると容赦なく付箋紙が貼り付けられ(自分でも他の方の報告書には付箋紙を貼り付けますが)、何度も考えなおして「最終版の報告書」が作成されます。
 
 「仕事」と言う自分の「身に直結すること」、「趣味」と言うある意味「どうでもいいこと」。
 確かに違いはあります。「趣味の話」に関しては「責任」と言うものは付いて来ません。それでご飯を食べているわけじゃないですから、「趣味」なのですし「楽しみ」なのです。

 ですが、果たして本当にそれでいいのか?と言うことをここ最近非常に感じているのです。
 たとえ「趣味」であったとしても、その事象に関しては「その事象の当事者」が存在するわけで、その「事象の当事者」にとってはある意味死活問題である訳で、果たして外野が身勝手に何か意見を言ったりしてしまっていいのか?と考えてしまうのです。
 
 「お前考えすぎ」「職業病だな」「自意識過剰」と言われればそれまでです。
 考えをそのまま伝える手段は幾らでもあります。ですが、その考えた事をそのまま伝える前に一回立ち止まって、色んな部分から検証をした上で「何かを言う」と言うことが、本当は必要なのかなぁと思う所ではあるんですよね・・・。

 あー、やっぱ最近病んでますわ。はい。