静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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096 日常の風景

 まぁ、下の項目で自分の勤めているまちの風景を出したので、その流れでこのお題。
 自分にとっての「リアル」が存在する風景、それが自分にとっての「日常の風景」だと思う。その日常の風景の中に身を置くことによって、自分自身も「まち」の一部となり、そのまちと一体化していると思う。実際、他のまちを歩く中で感じる違和感、それは「自分の身の置き場」が無いと言うものに由来するのではないだろうか。その「ずれ」を楽しむのが「まち歩き」であり、「旅行」の楽しみの一つではないかと思う。
 確かに過去においては、自分にとって大阪と言う都市は「日常の風景」だった。
 しかし、実際に今大阪に行くと、そこには自分が感じているものとのズレが存在し、その都市の中における「自分の居場所」を喪失してしまったと感じる。まぁ、10年前の話ですから当然ズレが存在しているんですけどね。
 だが、静岡のまちを見ているとこの「ズレ」を感じるのか?と言えば決してそれを感じる事はない。何故ならば、まちが変貌していく様子をリアルタイムで見る事ができる「身の置き場」を持っているが故である。駅前広場の改装工事だって、工事着工前の様子を知っている。そして、その工事のプロセスを常に見ている。恐らく、1年に1回程度行く所であればその変貌を強く感じる事であろう。しかし、日常の風景の中に身を置く自分にとってはその変化は連続的なものであり、大きな変化であっても大きな変化と感じるものは無い。
 日常の風景、それは「変化のプロセスを知る場所」がある風景だと思う。