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コミュニティの再定義

 最近はmixiの使いやすさを知って、結構そっちの方でも色々な事を書いています。ネタに関しても多少棲み分けをしたりとかしていたりする訳なんですが。で、mixiのようなSNSサービスを便利に使いながら最近感じている事を書いてみたく思います。


 地域社会を指す言葉として「コミュニティ」と言う言葉を使う訳なんですが、そろそろ「コミュニティ」と言う言葉の意味が本格的にあやふやになり出したのかな?と思っています。普通「コミュニティ」と言うと地縁による結合を指すものなんじゃないのか?と思いますし、様々な書籍を繰ってみてもやっぱりそこにあるのは「地縁」と言うものが存在していると思うんです。
 ですが、mixiなどのSNSの中で「コミュニティ」と言う言葉を使うのには正直な所違和感を感じる部分が実際にある訳で。確かに「テーマ型コミュニティ」と言う言葉もありますが、「テーマ型」とわざわざ断りを入れて使っている以上、それは本当に「コミュニティ」となりうるのか?と言う所で疑問が正直な所あるんですよね。考えが古いって言えば古いのかもしれませんが、このような「趣味の集まり」って言うのはそれこそSNSが盛んになる前から存在していた訳ですし、NIFTYのフォーラムや会議室と言ったシステムもあった訳です。そう考えると、仮にCommunityと言う言葉の意味を「Communicationが行われる場所」と定義をするのであれば、確かにそのような「趣味の集まり」もCommunityと言っていいのかもしれません。
 ですが、違和感を感じるのは「その集まりの中に、何か問題解決をしようとする意識が構成員の総意として存在するのか?」と言う部分だったりします。この「問題解決への意志」がCommunityか否かを決める分岐点になっているのではないか?と思っているんです。
 今、私はとあるアマチュアオーケストラに所属しているんですが(この件に関しては、必要に応じてこちらのBlogでも書かせて貰います)、その「オーケストラ」と言うのはリアルな社会に存在している訳ですし、当然ながら「音楽を演奏する」と言うリアル社会における目的、いわば問題意識を共有しています。その問題意識の共有や、その中で発生する様々な問題を解決するための補助システムとしてのmixiにおけるcommunityの存在、これは確かにありだと思うのです。恐らく、同人サークルなんかでもmixiのシステムを使っている所もあるでしょう。このような「場」は、地域社会における「テーマ型コミュニティ」の一形態として捉える事が可能であると思うのです。
 ですが、「何か特定のものが好き」と言うだけの集まりの場合、そこに集まる人の繋がりと言うものはそれらリアル社会の繋がりに比べてみれば弱い部分があるのではないでしょうか。すなわち、「解決すべき問題を共有してない」場合、それをCommunityと言うべきなのでしょうか?正直、その部分が自分自身の中で違和感を感じる部分ではないのか?と思うんです。
 そう考えると、今使われている「コミュニティ」と言う言葉の定義をする必要があるのではないのかな?と思うんですよね、個人的には。まぁ、そう安易に「コミュニティ」と言う言葉を使って欲しくないって言う部分もあったりする訳なんですが・・・。これだけ様々な問題があり、情報が氾濫している社会の中で「どれが本当の情報であるか」と言った事の判断や、情報収集にかかるコストなんかも考えてみると非常に面倒くさい状況を考えると、自分の中で「コミュニティ」と呼びたくない集団であったとしても「情報の取捨選択、情報収集」、そして情報発信と言う機能を考えてみると「コミュニティ」と呼んでも構わないのかな?と思うんですよね。


 まぁ、何か自己完結のような形になってしまったのは仕様なんですが。
 もう少し、参与観察をしてみても面白いのかな?と思っております。