静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

ご無沙汰しております・・・・

 ども、ご無沙汰の倉庫番です。ここ1週間近く全然書いておりませんでしたが、マジで色んな事ありすぎでした。


7月3日(月曜日) ■最悪の展開
 前々から色々とお世話になった親戚のおばさんが手術をして入院しておりまして。まぁ、会社から帰ってきた時には「だいぶ意識もはっきりとしているようだ」と言う連絡を受けました。あともう少し乗り越えてくれれば大丈夫だな、と思っていました。
 ところが、事態は思わぬ方向へ動きました。その日の22時頃。「今から東京へ行くよ!」と言う我が家の中の人の声。こんな時間に東京へ行く、それはもう良くない話でしかありません。病状が急変し、意識不明の状況になってしまったと言う事でした。即座にシャワーを浴び、翌日そのまま出勤出来るような身支度を調え、自家用車のハンドルを握って夜の東名を東京へと向かいます。ナビに出る所要時間は約2時間30分。早く行けるな・・・と思ったのですが。


7月4日(火曜日) ■急ぐ心、想いは届かず。
 日付が変わった頃、早速1カ所目の渋滞に填ります。事故の場所は東名原の手前で、渋滞の最後尾は東名中里付近。シャレになってない状況です。30分ほどで渋滞を抜け、足柄SA・港北PAで休憩を取りながら首都高に突っ込むと渋滞渋滞また渋滞と言う状況。「頼むから、たどり着くまで・・・」我が家の中の人も、自分も言葉少なくそんな事を考えながら入院している病院に車を急がせます。そして、午前2時30分頃、到着。その足でICUに入り、おばさんに面会します。
 面会後、廊下の待合室で親戚一同で待機。重たい雰囲気があたりを包み込みます。外の空気を当たりに行くと、夏の東の空はすでに白み始めていた午前3時30分でした。黙っているだけで涙が溢れてきそうになるわけで・・・。正直、この時間帯ほど辛いものはありませんでした。8時を過ぎてもまだ説明が無い様子なので、会社には休みを取る連絡を入れました。
 午前10時頃、主治医の先生から話がありました。結果は・・・「ご家族の方が、心づもりをして頂くための時間です」と言う言葉が。それぞれがそれぞれの心の内に「覚悟」を決めた訳で。自分の家の中の人にしても、従兄弟の中の人にしても、分かっては居るものの、「取りあえず今はすべき事をしよう」と言う事になり、12時30分頃、一旦清水へ向けて来た道を帰る事にしました。「あと一人会うべき人が来たら、決断をする。」そのような状況でした。
 清水に向けて一旦引き上げる道のりは、本当に辛いものでした。精神的にもかなり参ってしまっていたり、ロクに睡眠を取ってなかった事もあり、「取りあえず足柄で一服するわ」と言う事で足柄SAに入ったとき、その電話がありました。「出来るならばすぐ戻ってこい」。ですが、体力の限界もあり、なおかつもう一人の我が家の中の人も居るのでそれは出来ず、清水まで戻ってきたのです。
 そして、自宅に戻って暫くしてから・・・亡くなった、との連絡がありました。
 62歳。短い人生でした。我が家の中の人は泣き崩れました。ですが、自分はまだ「そうか・・・」としか思えませんでした。何故なんでしょうか?まだ、「自分のすべき事をしきってない」からなのでしょうか。ですが、その日は何もする気力も起きず、取りあえずは明日会社に行く準備、そして、通夜準備から告別式の間まで東京に居るための準備をして寝てしまいました。音楽も何も聞かず、ただ疲れた体を休ませたい、そう思ったのでした。 


■7月5日(水曜日) 窓の外に映る景色は・・・
 我が家の中の人は7時前に東京へ向けて自家用車で出発。自分はどうしても外す事が出来ない会議や不在中の仕事の段取りなどがあったため、会社へ出勤しました。仕事をしても身に入らない。会議をしても身に入らない・・・と言う事は確かにありました。ですが、この3日から本開設をしたフェアの公式ブログの更新をしたりなど、それ相応に気合いを入れて仕事をした訳で。「自分のすべき事をしてから、お別れを言う」そのために一日過ごしたと言うのが実際の所です。
 帰り足、西伊豆に出張に出かけていた同僚のK君が帰ってきました。お客さんの所で何かお土産を貰ってきたようで。何かわかりませんが、取りあえず大きい包みを渡されて、持って帰りました。翌朝東京まで乗っていく「しみずライナー」の座席指定券を発券してもらい、夕飯を近所のジャスコで買いながら帰ります。
 ですが、寝ようと思ってもまったく寝る事ができません。色々と気が昂ぶってしまっているのでしょうか・・・。眠りにつけたのは3時を回っていました。


■7月6日(木曜日) タグ
 朝4:30起床。タクシーを5:20に予約してあるので手短に洗面を済ませ、家の中を片づけていると5:20。タクシーに乗り込み草薙駅へ向かい、東海道線に乗り換えて清水駅へ。
 6:00過ぎに「しみずライナー2号」が到着し、乗り込む。そんな車内で何気なく書いたものがあるので、mixiの方からこちらへと転載してみます。


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06:17
 しみずライナー2号乗車。いつもの西工かと思ったら代車のH657-04411。補助席は無いので、恐らく青春ドリーム用導入車両か。車内の広告欄には沼津線の案内が入っている。 ノリホは約20名程。
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06:28
 東名高速線。
 考えてみれば、ガキの頃から数えきれない程乗っている。けれども、誰かの葬式に行く為に乗ると言うのは今回で2回目だ。
1回目は、大学の部活の先輩のお通夜に行く為に乗った東海道昼特急大阪ゆったり号。この時も思いがけずに乗ったと言う記憶がある。
 そして今日。練習に行く時に飽きる程乗った、いや、これからも乗るしみずライナー。だけど代車。
 バスは幾度も通った富士川を渡る。
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06:42
 人を繋ぐと言うこと。
 交通の持つ最大の使命。だけど、それは経済的に結びつけるだけでは無い。色んな人の気持ちと気持ち、想いと想いを結ぶこと。それも大事な仕事だと思う。
 車内を見ると色んな人が乗ったいる。これから東京へ遊びに行く学生、出張のビジネスマン、旅行に向かう老夫婦。全く違う理由のために全く知らない人が同じ車両で東京を目指す。
 そんないくつもの想いの中に自分の思いも漂っている。そう、思い出すのは時間の欠片。
 輝く海を望むことは出来ないが、自分が一番大好きなまち、沼津を眺めながら東へとひたはしる。
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07:23
 雪が夜に溶けて煌めく
 風になる旅立ちを誘う風
 祝福の風、願いは
 離れ得ぬ絆へ
   -From Snow Rain
 得るものがあれば、失うものもまたある。永遠などと言うものは決して存在しない。記憶の底に何時しか存在は沈み行く。
だけど、これだけは信じていたい。存在の記憶は決して失われる事が無い事を。 ただ、記憶の引き金を様々な事象の中に埋没させてしまうだけである。
 自分は幸いにして鉄道やバスが好き。細かい編成や社番はいつか忘れても、印象に残る乗車記録だけはふと蘇ることがある。
そう思うと、今日の乗車は故人からの最期の贈り物なのかもしれない。吹く風の中で何時しか埋もれてしまう記憶の中で、記憶のタグを埋もれさせ無いようにと言う。

平成18年7月6日、東名7802便。H657-04411号車。 無味乾燥なタグかもしれない。だが、このタグは忘れてはならない。

 車窓を眺めながら、涙が止まらなかった。
 色んな思い出と一緒に乗った東名ハイウェイバス。亡くなってしまったおばさんと一緒に乗った「急行 東名富士行」もある。本当に自分がまだまだ子供だった頃の話だけど。そんな些細な事から色んな思い出が一緒になって思い浮かんでくる、そう、本当に「どうでもいいタグ」なのかもしれない。そんなタグの先にある一つ一つの思い出たち。そんな思い出の向こうにあった景色。いつもなら希望と楽しみと楽器を持って乗り込む「しみずライナー」も、今日だけは本当に違って見えた。
 東京駅で回数券と定期券の継続をした後、山手線・都営三田線に乗って向かう。
 
 いつも自分が泊まらせてもらっている部屋での対面。本当は生きて帰ってくるつもりだったんだろうなぁ・・・と思うと本当に無念でならない。そんな事をぼんやり考えていたが、通夜の前の準備などで色々な忙しさの渦に巻き込まれる。それが良かったのかもしれない。都内を走り回ったり、夜には阿見まで出かけたりなどして3時頃就寝。


■7月7日(金) 修羅場。
 自分の母方の祖父は健在、とは言えども入院をしている。
 昨日自分が色々と忙しい間に我が家の中の人の姉妹は入院している病院に向かい、亡くなったと言う事実を告げに行った。そして、今日、対面をする事となって外出許可を貰って家まで帰ってくる事になった。その出迎えに病院まで向かう。こんなに祖父の体重って軽かったっけ?と思う。
 家に着いて、背中に背負って階段を上がり、対面をさせる。・・・何とも言えなかった、いや、自分は涙しか出てこなかった。子供に先立たれてしまう親の心境を考えると、本当に何も言葉が出ない。そして、時間が来て病院に帰る祖父を見送る。従兄弟の背中が大きく、そして頼もしく見えた。

 午後。昼食の後、服を着替えてから納棺。大好きだった雛人形、そして、祖母から貰った和服と一緒に入る。ご遺体には霊魂はもう入ってないはずなのに「一体どんな事を考えているのかなぁ・・・」などと分かっていても考えてしまう自分がそこに居た。目の前にあるリアルをまだ信じられない、いや、信じたくない自分が居る。その後、通夜の会場まで移動して、通夜に臨む。多くの方がお別れに来てくれた。これだけの人に親しまれていたんだなぁ・・・と思うと、何とも言えない気分になる。

 夜、遠方の親戚の人と共に話をしながら酒を酌み交わす。自分のルーツが福島、それもいわきにある事を再確認できた。一度でいいからどんな所なのか行ってみたい、そして、その道を辿ってみたい、そんな風に思う。秋にでも時間を取って行ってみようかなぁ・・・と。この日は告別式の準備もあって2時頃就寝。そういえば今日は七夕の日だったなぁ。すっかり忘れていた。



■7月8日(土) 旅立ちの時。
 告別式。だが、諸事情あって遠方から来る親戚を待って家を出るため会場入りは1030を回っていた。すでに式は始まっていたのだが。最後に棺の中に花を入れるとき、その顔が何か悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。もう、これで会う事は出来ないのか・・・そう思うとまた涙が溢れてくる。
 車で戸田の火葬場まで向かい、いよいよ最後のお見送りとなるが、釜の扉が閉まるのはいつ見ても何とも言えない気分になる。もし、あの中で何らかの事情で生き返ったら一体どうするのだろう?と。いや、そんな事が無いのは分かっている。何度も何度も確認の上、と言うのはある。けれども・・・。
 そして、お骨を拾いあげ、初七日の法要をやってから親戚宅へと戻る。
 疲れ果てた。ビールを2本程飲んで寝る。


■7月9日(日) そして、はじまり。
 この1週間の間の片づけをしてから、再び東名を清水へと戻る。自宅にたどり着き、ようやく一息つける。

 更新が無かった件、色々とご心配をおかけしてしまいました。
 自分にとって両親の次に大事な人だっただけに・・・心の整理を付けたかったと言うのが本当の所です。

 62歳と言う短い一生でしたが、色々と大事な事を教えてもらったり、色んな思い出があります。ですが、その中で共通していた事は何か?って言うのを考えると、「出来る事を精一杯するように」って言う事でした。

 また明日から新しい1週間が始まります。四十九日までは多少引きずるかもしれませんが、悔いの残らないよう、精一杯色んな事を新しい気持ちでまたやって行かなくては・・・と言う事を決心した自分が居る訳で。どこまで出来るかは分からないですが、そんな事を考えながらまた明日から普段の生活に戻る事にします。