静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

部分最適と全体最適。

 相当固い話になるので、興味の無い方は読み飛ばして頂く事をお薦めします。その上で、このエントリを読む前にこれだけはご理解下さい、それは、言及先のBlogの事をことさらに批判したりとか、貶めるためにこのエントリを書いたものではない、と言う事です。

 こちらのBlogの記事を見ておりました。前々からアンテナに突っ込んでいて更新がある度に見ておりましたが、どうも何とも言えない「違和感」を感じて仕方無かったのです。
 こういう(高速バス関係)趣味を持っているので、業界全体が一体どんな感じで進んでいくのか?と言う事は気になっていますし(趣味&仕事)、自分自身「高速【路線】バス」を追いかけるので手一杯なのでなかなか「高速【ツアー】バス」に関しては全く理解していません。そんな中で「全体の方向性」を総覧して頂いている点、そして、「バス業界」そのものに対する「深い愛情」と言うものを非常に感じる事ができるところです。自分も独立したらそれこそバス会社向けの経営支援なんかをやってみたいと思っていますし、それが故に"Transportation and Content Industry for Communities(地域コミュニティのための"交通産業"と"コンテント産業")"とこのBlogのテーマを謳っているのですが。

 それはそれとして。

 このBlog全体を読んでいると「マーケティングを行う事で全てが解決する」と言うような論調になっています。確かにマーケティングは重要ですし、自分自身も「もっと上手くお客さんの動向とか読んでダイヤ設定しないとならないんじゃないの?」的なことを弊Blogでも書いています。確かに「マーケティング」である程度の所まで乗車率とか収益性とかに関しては解決すると思います。ですが、その「一歩先」に行くには何が必要なのか?と言う事を果たして言っているのか?と言う事が全く見えてきません。
 確かに売上を高めるのは大事です。バス会社だってボランティアで仕事をやってる訳ではありませんから。当然、場合によっては大なたを振るって「儲からない路線を縮小して、儲かる路線に資源を振り替える」ことも必要でしょう。恐らくそのような提案を行うときにはその路線に関する「外部環境分析」「内部環境分析」をみっちり行った上でアクションプランを出すのかとは思います。個々の事業に関してはそれでも構いませんし、むしろそうやって分析をして欲しいと思う所はあります。

 「事業単位のアクションプラン」で本当にいいのですか?
 「企業全体の分析」と「アクションプラン」が必要なんじゃないですか?

 地方のバス会社は往々にして「地元の名士企業」であるのは確かなところですし、同じグループ内でタクシーもあればスーパーもある、不動産部門もあれば自動車ディーラーもある、と言った企業では無いでしょうか。当然ではありますが、そのグループ全体での統一されたミッションがありますし、その事業を行うための行動規範が存在します。そうなって来た場合に優先されるのは「個々の事業戦略」でしょうか?それとも「全体の事業戦略」でしょうか?

 さて、答えはどっちなのでしょうか?

 恐らく、「これだ」と言う答えは無いような気がします、散々書いておいてですが。
 企業によっては「自社の得意な部分にリソースを集中的に投下する」戦略によって存続を維持するのも答えだと思います。また、ある企業では「その不採算部門を切り捨てる」戦略も答えでしょうし、不採算事業は不採算事業として受け入れ、内部留保によって存続を維持する、と言うのも答えだと思うのです。

 ただ、その「どの戦略を取るのか」と言う事は単純に決める事はできません。
 その主体者に絡んでくる様々なアクター(金融機関であり、地域住民であり、行政であり)の意向をどのように見るのか、そして、主体者が考える「将来像」をどのように実現していくのかと言う部分であると思うのです。これは、どんな組織であっても全く同じ事であると考えます。その「全体の方向性」なくして「個別の方向性」と言うものはあり得ないですし、仮に「個別の方向性」が決まったとしてもどこかで論理的破綻が発生します。そうなってくると・・・はい、折角作った素晴らしいアクションプランであっても「それってどうなの?ここで矛盾してるよね?」と言うことになるでしょうし、何よりも最前線で日々の業務をしている方にとって余計な手間をかけることになり、取り返しの付かない事態が発生してくると思うのです。

 「(企業名)は、(対象とする顧客)に(提供する価値)を(価値を提供する方法)を通して提供し、(対象とする顧客)の(顧客の求める価値)に貢献します」

 この部分が社内でコンセンサスが取れない限り、どんな素晴らしいものが出来ても意味はない、そう考えます。
 「部分最適」ではなく「全体最適」を考えることによって、初めて「価値」を考える事ができるのではないでしょうか。