静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

浜松市における地域産業の現状〜産業集積と地域経済環境〜(6)

 一言で言ってしまえば「支援機関」の存在が、浜松地域における産業集積にとって大きい。すなわち、「人」や「法人」、「商品」や「技術」の活動にとって欠かすことのできない「資金供給源」としての「金融機関」である。
 元々静岡県は東海道の要衝として経済交流が盛んであった他、茶輸出取引で金融機関が必要な地域であり、明治34年には静岡県全体で184行金融機関(含む銀行類似会社)があったが、静岡県西部地区は115 行も立地していた。なお、現在では地方銀行が同一県内に3 行(静岡・清水・スルガ)立地する県である。また、日本最古の信用金庫である「掛川信用金庫」は浜松市内ではないものの、静岡県西部に立地している。
 これらの「金融機関」(特に現静岡銀行)の形成過程を見ると、特に「報徳思想」との関連を強く見ることができる。「報徳思想」とは二宮尊徳が始めた「報徳運動」(農村復興運動)を進める中で得た知識を体系化したものであり、「勤労」「分度」「推譲」を柱とする「生活様式」として農民の生活に定着したものである。
 この「報徳思想」と、スマイルズの「Selp Help」の翻訳版である「西国立志編」に書かれた「身分制度を越えた自立への可能性」が結びつき、浜松地域で報徳思想を広めた岡田良一郎は「報徳富国論」で「開智」「立徳」「致富」の重要性を説いた。その具体的な活動として、各村に存在していた報徳講の中央組織として「遠江報徳社」を明治8 年に設立し、結果的に共通の思想を持った問題解決のための地域内ネットワーク形成が行われることになった。
 その他にも、この「報徳社」は貧民の借財返済や荒地の開拓、荒廃農村復旧などのような地域が抱える諸問題を解決するためのファンドに近い性格を持つ基金を持っており(「資産金貸付所」)、これが幾つかの合併吸収などを経た上で現在の「静岡銀行」の一部となる。

 すなわち、「報徳思想」が浜松地域における「ソーシャル・キャピタル」として機能し、現在の産業集積が発生する一つのファクターとして考えられるものである。