静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

過去記事のアーカイブになっています。

そろそろ書いてみようか、0系の話(3)

 と言う訳で、だいぶ引っ張ってきた0系の話題も今日でおしまいにしたく思います。
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 自分は今でこそバスヲタやっておりますが、今でもそうなんですがベースは鉄ヲタです。その鉄ヲタである事をベースにした上で「地域」と言うものに目が向き、そこから「旅行」と言うものや「地域産業」と言った周辺分野の興味関心が芽生え、挙げ句の果てには2年間静岡と東京を往復する研究生活をしてみたりとか、中小企業支援と言う仕事をやる中で中小企業診断士の資格取得に向けて勉強を始めたりとか。そう言う部分で「鉄道」と言うものとは直接関係してないものの、全てはそこから始まったのかな、と思う所な訳で。
 一番最初に乗ったのは・・・多分都営三田線だと思います(生まれは板橋区ですから)。そして、その次に乗ったのが東武東上線な訳で。荷物電車が走っていた頃や。志木駅

こんなキレイになる前〜当然地下鉄の乗り入れなんてやってない〜の頃をリアルタイムで知っていたわけで(だから時々東武東上線(;´Д`)ハァハァ的な記述も出るんですけどねw)。更に言えば父親の実家が清水市内にあった訳で、当時川越に住んでいた自分達家族が帰省する、と言えば母親の実家に行くのに東武東上線乗ったりとか、父親の実家に行くのに東上線乗って〜山手線乗って〜新幹線or急行東海号乗って、と言う事がありました。そんな中で育った事を考えれば、自分の中にある鉄道の原風景の中の一つに「新幹線」、それも0系があったのかなと思うのです。
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 自分の中で記憶のある新幹線の風景、それは「こだま号」のグリーン車です。
 贅沢を言うな!と思われるかもしれないのですが、我が家の中の人に確認をしたところ「普通車だと他のお客さんに迷惑になるからグリーン車乗った」と言う理由や、「帰省ラッシュの時なので、普通車指定席が取れなかった」って言う理由みたいで。決して贅沢だから、と言う訳ではないそれ相応の理由があるみたいなんです。
 で、何でグリーン車なのかと分かったのかと言うと、座席の色が黄色っぽいイメージが残っているんですよね。その当時の普通車は銀色に青色の座席だった訳で、そうなるとグリーン車しかない訳で。更に言わせれば「2歳頃の話でねぇ、それ。車内をチョロチョロしてしまっているんだけど、何かご機嫌だったわよ〜」
 ・・・今でこそ車内をウロウロ歩き回る事は無いのですが(苦笑)、基本的に乗る事に幸せを感じる「乗り鉄」なのは今でも全く変わってない訳で。33年間進歩なしかよwwww。
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 とまぁ、0系グリーン車の記憶はそれだけで。後は普通車の想い出ばっかりなんですよね。一時期富士や沼津にも住んでいた事があったので、やっぱり「こだま」に乗った記憶があります。車内で食べたプリンが(゚д゚)ウマーだった事なんかも思い出しますよ。今となっては「帝国ホテルの車内販売だったんだな」って思うんですが。
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 中学生になってから、新幹線に乗る機会が格段に増えました。
 静岡市内にあるとある私立の中学に通うことになったのですが、1年生から2年生の1学期は沼津から通っておりました。当然普通は普通電車(沼津発6:23)で静岡まで通っていたのですが、吹奏楽部に入ってしまったわけで。で、当然ながら演奏会直前は朝練と言うのがあり、7:45までに音楽室に入らないと不味いわけで。流石に普通電車では無理があったので、定期券を「静岡〜三島」にしてしまい(本当はNGなんでしょうが、駅の人も黙認してくれたみたいです。それこそこっちの方が時効なんですがw)、特急券購入で新幹線に乗れるようにしました。
 で、朝練の時は三島始発のこだま号で静岡まで向かっていました。ええ、毎回特急券を買うのは何なので「幹定回」を購入していたりとか。この頃から「新幹線」が急に身近になったのだと思います。それこそ国鉄の最も末期だったので食堂車から普通車に改造した普通車があったりとか、相当「変な車両」が多くあった訳で。乗る度にそんな「変な」車両を探していたりしたと言うのもあったりします。それこそ、今みたいなデジカメがあった訳じゃないので、記録は何も残せてはいませんが・・・、デジカメがあったら「○○の改造車発見」なんて言うノリで写真撮りまくっていたと思いますよ。新幹線じゃないですが、時には急行東海号で帰ったりとか。今となっては「これは酷い」と言う通学をしていたなぁと思います(尤も、それから15年後位に再び東海道線で通学するようになったとき、グリーン車乗ったりとか、あまつさえには特急東海号乗ったりとかした訳なんですが)。
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 そんな「朝練」に向かう時の話。
 三島駅を出た新幹線は速度を上げて快調に走っていたわけなんですが、急に車内の電灯が落ちてスピードも落ち、ついには止まってしまいました。「まずい、朝練間に合わない!」と言う訳なんですが、まぁ、新幹線に乗ってしまっている以上何も出来ない訳で。仕方ないので授業の予習を始めたりしたんですが。
 何で停電したのかと言えば「変電所に大きいカラスが入り込み、電線をショートさせてしまった」と言う仕方ない理由。まぁ・・・何も言えないのですが、朝練に間に合わないどころか遅刻寸前に教室に入り込むと言う訳で。後で部長(中高一貫の学校でしたので、部長さんは高校3年生でしたので・・・当然怖い先輩です)さんに「どうして朝練を無断で休んだんだ!」と怒られました。まぁ、事情が事情だったので遅延証明を見せて、ケツバット(遅刻の罰として尻をビニールのバットで叩かれる)は免れましたがw。
 でも、その後「沼津からじゃやっぱ新幹線使わないと間に合わないよなぁ・・・。大変だけど特別扱いはしないぞ」と言われたりとか。まぁ、部活なんて案外そんなもんかもしれません。
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 いつしか国鉄JR東海になり、静岡にも「ひかり」が1本/時間停車するようになった訳で。徐々に100系G編成も増えていった頃、修学旅行に行くことに。そんなに人数は多くなったのですが、それでも名古屋からは一般客との混乗ではなく、専用列車で行くことに。0系の普通車で博多まで・・・と言う事だったのですが、勝手知ったる何とやらで、隣のクラスの友人が何故かグリーン車にアサインされていたのを良いことに、大阪から博多まで延々と他のクラスの車両に紛れ込んでグリーン車座っていましたw。
 まぁ、専用列車の場合にはグリーン車が普通車扱いになるって言う事もありますので、恐らく自分の通っていた学校にグリーン車が割り当てられたと。車窓を見ずにそれこそカードゲームで盛り上がっていたような気がしないでも無いです。車内販売は当然乗ってないですからね(笑)。
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 そのほかも色々と話はありますが、高校になるまでの間で0系に乗った想い出と言うとこんな所かなと言う感じで。
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 とまぁ、3日間に渡って0系ネタで書いてきましたが、やっぱり自分にとっての「新幹線」は「鉄道の原風景の一つ」であり、その中にはやっぱり0系が居たんだな、と思うのです。100系も乗って来ました。300系に初めて乗務したときの緊張感は忘れられません。500系の出発式を東京駅で眺め、700系/N700系の一番電車にも乗りました。
 でも、やっぱり0系なんです、自分にとっての「新幹線」は。
 あの頃の時間は戻ってきませんし、社会も人も変わってしまいました。当然、その中で「新幹線」に求められているものは変わってきます。スピードを上げるだけではなく、いかに環境に優しいものにするかと言う事や、ビジネスに対応するかと言う事も。そんな中で100系300系500系、700系、N700系と言う後輩たちが生まれてきました。既に100系東海道新幹線からは去ってしまい、山陽新幹線で「こだま」として最後の勤めを果たしています。300系500系東海道新幹線からの引退は時間の問題となっている所で。
 考えてみれば不思議なものです。0系より先に旅立った100系300系、そして500系も居る訳ですから。それだけ「時間の流れ」は早く、時代が求めるモノも変わってきたのかもしれません。ですが、「大事な想い」を乗せ、安全にお客さんをエスコートする事は全く変わりません。0系が築いた「役割」はこれから先、どんな車両も引き継いで行く事だと思います。本当にこれで「走る事は無い」のかもしれません。ですが、「想い」だけはこれから先の車両たちに引き継がれていくのかな・・・と思うのです。そう言う意味では「さよなら」じゃなくって「卒業」なのかもしれません。一つの役割を果たし、次の世代に無事に引き継げたと言う事で。
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D
【初音ミクの本気オリジナル曲】 いつか笑顔、いつも笑顔ニコニコ動画
 12月14日のエントリで紹介させてもらいました。

笑顔 君と笑顔 みんな笑いあって
悲しい過去なら全て 涙に流そう

そして笑顔 共に笑顔 いつかの時だって
心が折れないように 歩き続ける そう誓うよ
"いつか笑顔、いつも笑顔"歌詞より引用

 12月14日、「ひかり347号」で新幹線から卒業していった0系。
 そこには色んな人の色んな想いがありました。0系は走り去ってしまいましたが、その残してくれた色んな想い出は、それぞれの心の中にいつまでも残り、その想い出の中で0系はいつまでも走り続けているのではないでしょうか。だから「お別れ」とは言いません。「卒業」と言いたいのです。
 その残してくれたものを、誰かが受け継ぎ、もっと大きな花を咲かせて欲しい・・・そんな風に思うのです。
(了)