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浜松市における地域産業の現状〜産業集積と地域経済環境〜(4)

盛んとなっている。これは、元々和歌山藩士の家庭に生まれた山葉寅楠が明治17年に当市で医療機械の修理工として働く事になったのがきっかけである。 山葉は副業で時計等の修理も行なっていたが、当時の浜松尋常小学校にあった輸入オルガンの修理をしたときにその構造を模写し、それから2ヶ月程で協力者である河合喜三郎とともに国産オルガンを完成させ、明治25年にはオルガン78台をイギリスに輸出するまでになった。
 当市にはピアノメーカーとしてヤマハの他にも河合楽器製作所があるが、この河合楽器製作所の成立は日本楽器製造の技術者であった河合小市という技術者が昭和2年に「日楽争議」(大正15年に発生した労働争議)の影響を受けて退職したことに起因する。河合は昭和3年にグランドピアノを開発して、以来ヤマハと共に日本のピアノメーカーとして今日まで存続している。
 また、先述の通りに第二次世界大戦中には民生用楽器の生産が禁止されたため、ヤマハなどの楽器メーカーは楽器製造から戦闘機用プロペラ生産や砲弾製造と言ったような軍需品生産を余儀なくされる事になったが、これが地域内に「金属加工技術の蓄積」を進めることになり、いわば外的要因による「第二創業」を進めることになった。その結果として、ヤマハは今日ピアノだけではなく各種金管楽器などの製造の他、子会社として二輪車メーカーのヤマハ発動機を持つ一つの要因となる。
 そのほか、大正11年に開設された浜松高等工業学校(現静大工学部)で開発されたテレビジョン技術も忘れてはならない。昭和40年には工学部付属電子工学研究所が旧帝大以外の新制大学で初めて開設され、電子機器・光工学関係の産業も浜松に根付くことになった。その電子工学と楽器製造の技術が融合し、各種電子楽器メーカーも当市に立地することになった。