静岡の高速バス倉庫 アーカイブ

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浜松市における地域産業の現状〜産業集積と地域経済環境〜(2)

 浜松市は元々稲作には不向きな地域であった。稲作が可能である場所は天竜川沿いの限られた地帯のみであると同時に、この稲作可能な場所は天竜川の氾濫に晒される場所であった。
 その稲作可能地域の西側には「三方原台地」と言う水利が非常に悪い台地が広がっている。そのため、農家は稲作ではなく商品作物として棉花や藍、紫根の栽培を行い、農家自身が自ら棉を紡いで染色を行い、手機で織ったものを市場に出荷した。これらの綿製品は交易中心地の名前を取って「笠井縞」と言う名前で知られることになった。また、江戸時代には藩主が機織りを藩士の内職として奨励していた。
 その他に、天竜川中流域(現在の天竜区)で産出された木材を天竜川の水運を用いて河口まで運搬し、そこから水運で木材が全国各地へ出荷された。これらは丸太のままではなく、「材木」に加工して出荷されていたため、「木材加工技術」が当地に定着することになったと思われる。
 また、浜松は交通の要衝としても栄えた都市である。江戸時代には東海道の宿場町として繁栄したことや、明治22年に全線開業した東海道線の駅が設置されたこと、大正元年に開設された鉄道院浜松工場(現在の東海旅客鉄道株式会社新幹線鉄道事業本部浜松工場)が開設されたことも、浜松市の「産業素地の形成」に寄与したものである。
 当時の鉄道は鉄工・木工・土木・繊維など様々な産業技術の複合体となっており、その工場が浜松市内に設置された事によって当地における総合的な工業技術への要求を生むと同時に、鉄道工場から独立した技術者の手によって先進技術が民間工場に移転され、浜松地域における各種技術水準の底上げが図られたと考えられる。
 公的機関と民間企業のネットワークの形成、民間企業間のネットワーク形成がこの時期に同時に行われたことが、現在の「産業素地」を形成したものと思われる。